presented by TECHNO CREATE
HOME > コラム > 「ごきぶり日記」 > No.042 江戸っ子  
No.042

江戸っ子

97/07/22
印刷
文字サイズ
[大][中][小]

<ゴキブリのまえおき>
この人は小石川は白山の生まれ、奥さんは本郷は根津、藍染町の生まれという。
奇しくも現在の文京区は小石川区と本郷区が合併して出来たというから、このお二人も合併の産物かも知れない。
最近は江戸っ子の影が薄くなったと嘆いている。

* * *
誰が云ったか、そんな決まりがあるということを聞いたことはないが、三代に亘って東京生まれで、初めて江戸っ子という説がある。
さしずめ海外移民で云うと、日系四世から生粋の現地人ということになる。
それはそれとして一体どこまでが江戸なのかという話も気になる。
生粋の江戸っ子を任じている我々に云わせれば江戸は旧東京市だと勝手に思っている。

明治元年に江戸は東京と名前が変わり、それから50区制、6大区制、15区制35区制と目まぐるしく統治方法が変って、明治21年に東京市制が敷かれている。
そのころ同じ時期に周辺の郡部を包括して東京府が出来ているがこの名前はあまり浸透していない。
東京はその後、大正12年に関東大震災で廃墟となり、昭和18年に東京市と東京府が併合され東京都となった。
これは東条英機内閣の軍国主義政策の一環と云われている。

私の生まれは小石川である。だから私の江戸は現在の文京区と云うことになる文京区は戦後、昭和22年に小石川区と本郷区が統合され文京区となったものだが、山手台(本郷台、白山台、小日向台、関口台)と平地で出来ており、山と谷を刻む起伏で地形の変化が多い。
だから至る所に坂があり、川があり、橋があり古き時代の懐かしい名前が多くの文学作品に残されている。

文京区の南部は幕府の武家屋敷があったところで、その跡地には東京大学、筑波大、お茶の水女子大、東京医科歯科大、拓殖大、東洋大、日本女子大など有名校が目白押しであり、この所以から文京区の名前が付けられたという。
小石川と云う名前は巣鴨付近から小石川植物園を通り、神田川に注いだ小石川(礫川)からついたという。
今はこの川も無く、名前だけが残る。
東洋大学のある白山台から西へ急峻な坂道を下るとその途中から平地までの間に小石川植物園がある。
敷地は16万平米、3000種に及ぶ植物を擁し、季節には種々の果物が、たわわに実る。
青木昆陽が日本で初めてサツマイモの試作をした記念碑もある。

この植物園が私と仲間の遊び場の一つであった。
坂の途中の塀は茅葺きであり、学校帰りに数人でまず、この塀の根っこを掘り、茅をかき分けて子供一人が潜り込める穴をあける。
ひとまずこの穴を隠し、悪童は家に帰るなり鞄を放り出して一人、また一人と人目を忍んで、かねて作って置いた秘密の入り口から潜り込む。
広大な園内は一旦潜り込めばこっちのもの、あとは、たわわに実った果物を狙うだけだ。
時には園丁に見つかり園内を逃げ回る。でも園丁も心得たもので絶対に深追いしない。
休日には屡々、叔父夫妻が植物園に連れて行ってやろうと訪れる。
その時は正装し、追っかけ回された園丁はいないかときょろきょろしながらも、正面から胸を張って入る。
この二つの人格の使い分けは子供心にもまさに冒険心を満足させるものであった。

後楽園球場もかって知ったる遊び場である。
その頃の球場の外は広大な草むらで、6、7センチもある大きなバッタが無尽蔵に生息している。
すすき野を夢中になって駆けめぐるうち、日はとっぷりと落ちて行く。
春日通りを大塚方向に向かって500mほど歩くと伝通院がある。
白山に帰るには伝通院の坂道を北に下るのがはやい。
伝通院、このお寺は徳川家康の母堂、於大の方(後の伝通院)の菩提寺であり、あの千姫のお墓もある。
広大な伝通院の周辺は暗く寂しく、一気に坂道を駈けおりる。

後楽園球場前の春日町交差点から春日通りを東に1km足らず行くと東京大学にたどり着く。
秋になると構内の銀杏並木は黄色い布団を敷き詰めたように落ち葉で埋まる。ぎんなんは無尽蔵に落ちている。
手をかぶれさせながら、あの臭いギンナン集める人は少なかったのかと思い出す。
ここまでくれば目と鼻の先に湯島天神があり、よく遊びに行った。
お蔦、主税の心意気に惹かれたわけではなかろうが、何か江戸っ子の心に郷愁を呼ぶのかも知れない。

春日町の講道館も遊び場であった。
世界の講道館を遊び場呼ばわりしては叱られることは知っているが、世はまさに第二次世界大戦の暗雲が立ちこめつつあり、何か武道をやらなければ非国民扱いされる。
でも、講道館は甘くなかった。
「姿三四郎」のモデルといわれた講道館創始者の嘉納治五郎十段が白髪、痩身に赤帯を締めて、雛壇に厳然と座っている。
乱取りは少年部も青年部も区別が無い。血気盛んな黒帯に講道館の青畳にいやというほど叩きつけられ、殺されるかと思った記憶が懐かしい。
しかもしばしば、嘉納十段の模範試合を見ることが許されたことは貴重な経験であった。

小石川が江戸だと云えば至るところから異論が出る。特に現在の台東区(浅草)、江東区(深川)、千代田区(丸の内、神田)、中央区(日本橋、京橋)あたりから反撃されるだろう。
みなそれぞれが江戸であり、それほどお江戸は大きいということである。
最近は江戸っ子が静かである。
会社勤めの頃、思わず「そんなこたぁ、やっちゃらんねぇよ!」といったところ相手が「その巻き舌は懐かしいねぇ」といわれたことがあり、あぁ、まだ江戸っ子が大勢いるんだなと意を強くしたことを思い出す。

* * *
<ゴキブリ後記>
インターネットに「鬼平犯科帳の世界と橋」というホームページがあり、池波正太郎の鬼平、一巻から一六巻までに出てくる橋の名前を挙げている。
この中でも最も頻繁に出てくるのが両国橋、永代橋、日本橋などだから、鬼平の舞台は隅田川を挟んだ日本橋~両国、日本橋~深川、浅草ということになる。
枕橋、思案橋など江戸情緒一杯の優雅な名前が多い。
やはり江戸っ子は神田、日本橋、深川、浅草当たりの下町っ子かね。

ごきぶり日記

投稿「私にも一言」

ページTOPへ