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No.310

自然淘汰されるのは

03/01/21
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「門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」とは一休禅師の有名な句。父は後小松天皇という定説になっている。
終生権勢にすり寄らない、清貧と孤高を貫く厳峻枯淡の禅と言われている。

これほどまでに庶民に愛されたのは貧富や職業に関しない平等の禅を説いたことにあると言うが、むしろ、禅僧という枠からはみ出し、酒を飲み、女を犯すという、まさに自由奔放に人生を生き抜いたことに対する羨望と憧れが大きいのではないかと思われる。

人間という生き物はまことに弱い、哀れな生物で、世の荒波や病という外的に対して身を守るすべを持ち合わさず、きりきりと神経を痛め、苦しみながら時として死ぬ。悟りの境地に達することも出来ず、何とも無力な哀れな存在のようである。どう足掻いてもどうにもならないのが現実ならば、“そんなものか”と割り切って今を生き抜くしか方法はないということになる。

大自然の中の動物の生も、その過酷な弱肉強食の生存競争の中に一定のルールや戒律があり、そのように生まれて、強者の餌食になる運命が決まっているようであり、それに異を唱えてもどうしようもないことは確かである。

どうやら資本主義社会というものは、原野の野生動物の闘いや、大海の生命の相剋と同じで、毎日の弱肉強食の闘いの結果として自然淘汰が起こり、やがては落ち着くところに落ち着くことが市場原理ということになる。
そこには権力が介入する余地はなく、介入すれば自然の摂理が壊れるのかも知れない。だが、それでは原始時代と変わりがない。

文明とは何だろうか。人間が人間の力で人間の理想的な社会を作ることにあるとすれば、今の弱肉強食の経済活動とは何だろうか。もっとも最善を尽くし企業活動を行うことなく、悪巧みを考える輩にはもっと厳しく対応しなければならないが、本当に死ぬ思いで努力をしても、世の仕組みなどでどうにもならない人が居る。

どうやら世の中は、お金をしこたま持って何処に不況があるかと、のうのうと暮らす人、明日が無いほど切羽詰まった人、の両極端になり、ある階級は文明を謳歌し、ある階層では原始的な喰うか喰われるかの生存競争を繰り返している様相である。
戦いはエネルギーのあるうちは勝利を確信して燃え上がるが、衰弱して来ると死の恐怖が襲う。

まるで天国と地獄絵を纏めて描いた絵を見ているような気がする。一休和尚のように“昨日は俗人、今日は僧 あしたには山中にあり、暮れには市中にあり”と奔放で気ままな想いで、“現実は夢幻の如し”と生きた方が良いのかも知れない。
暮れ正月に関わりなく、友が黄泉に旅立つて行った。

ごきぶり日記

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