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No.344

人の心は読めるか

08/03/10
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ベンチャー(ライク)のオーナー経営を永い間続けていると、いろいろな方にお逢い出来るし、人間関係の複雑さ面白さが実感出来る。
サラリーマンにはサラリーマンの、経営者には経営者なりの生き方と哲学があるのだから当然だが、この“人を読む”ことが出来ないか、という愚かな考えに浸っている。

えらい人、有名な人は世の中、星の数ほど居るだろうが、そんなことはどうでもよいことであってあまり関心はない。どんな立場の人でも生きざまを分析して考えると腹の中が見えるのではなきかというおぞましい考えなのである。
“人の心は計り知れない”というが本当に計れないのだろうか。

物質に性質があるように、人の心にもそれぞれの性質がある。それを個性と呼んでいるのかも知れない。その性質を分離して幾つかの変数、つまり性格、その人の生い立ち、お育ちの環境、時代背景などのパラメータを掛けながら発言や思考に流れにバイアスを掛けながら判断するわけである。

基本となる性質はいろいろである。物事を考えるのに始発から終点まで何も考えずに一直線に進む人、試行錯誤を繰り返しながらジグザグと進み目的地を求める人、様々である。だが、直線派と思われている人が必ずしも猪突猛進ではなく、コンピュータのアクセス速度が人より早いだけ、ということも考えられるが。

類型のパターンを頼って考える人、物事を分解して一つ一つ納得した上で進む人、物事の筋を通し、その筋論を基本として判断根拠を求めるタイプなどがある。
最も厄介なのは何も考えずにその時の気分任せで意見を述べたり判断したりというタイプだがこれは思考過程から除外して置いた方がよい。

こうしたものが総合されて人格が形成されているのだろうし、その頭脳メカニズムは既に決まっている。だから対話をする際はそのメカニズムのパス、あるいは通路から外れたら、相手がうなずいていても話は通じていないと考えるのが正解である。
自分が滔々とまくし立てて相手が肯いたから話が通じたと考えるのは間違いであって、相手は「よく判らないが面倒だから肯いて早く帰してしまえ」と思っているかも知れない。
それほどでなくても、充分に話し合ったと思っていたのに、ある場面で相手が全く異なったアウトプットを描いていたことを知り、愕然とすることもある。

同様に「主観」が支配する。前述の生い立ちに加えて後天的に形成された信念というのだろうか。人は話ながら常に自分の主観と相談している。主観と合わなければ拒絶するか都合のいいように妥協的な理解をする。これがまた相手の本当に言いたいことをねじ曲げて理解するかも知れないのである。

まだある。人の置かれている立場である。立場とは自分の存在価値であり、自分と家族のための保身である。この大きな壁が会話に立ち塞がってバイアスとして働く。

こうした要素を割り引き、消去出来れば本当に相手が何を考え、何を求め、何がその人のためになるのか、判ってくるのかもしれない。
“水は低きに流れる”指で溝を切っただけでも意のままに新しい流れが出来る。その流れを求める方向に描くのが戦略というものかも知れない。

心の赴くままに

ごきぶり日記

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